新規サイト002


                          車庫と修理工場

売店に戻り、「これから車庫と工場を見たいのですが」と聞くと、
「名札を付けていれば、工場でも、構内でも何処でも好きな所に行けるワ」と言われた。
化繊のポーチ・バッグを返して貰い、車で検修庫/修理工場/車庫に向かう。
こちらの駐車場は満杯。通り過ぎて端っこに車を止め、コンピューターの入ったバック・パックを取り出し、建物に入った。

修理場自体には1本の線路があるが(実際には入り口寄りにもう一本あるのだが、旋盤等の機械が置かれていて、良く見ないと判らない。
勿論使用不可)、今回は空っぽ。

前回は 「93」 が軸焼けで入っていたのだが。人も二人が台に足を乗せ椅子に座っているだけで、これ又空っぽの感じ。
それでも右手を見れば、扉が閉められた車両出入り口に向いてSD9が静止。
こちらは蒸機がお目当てなので大きな車体でも最初は眼に入らなかった。
 

検修庫/車庫は壁を隔てた向こう側だが大きな引戸が少し開いていて、生きている蒸機の音がする。
扉をすり抜けると、さっき運転した「93」が頭をこちら向きに停車していた。
屋根に取り付けられた大きな長方形の排煙口下に機関車の煙突が納まっており、灰色の煙と、タービン発電器から噴出している蒸気が吸い上げられていく。
それでも何となく辺りが煙っている。
水銀灯らしき強い電球が何個か屋根から吊り下げられているのだが、運転室当たりは薄暗く、火床と灰箱の隙間から朱色のジンワリとした光が漏れている。
石炭が燃焼しているのが見えているのだ。

朝、機関車の運転室に上ったり降りたり、側をウロウロしていた青年がいた。
話をしてみると検査、修理をしているようだ。
運転室床下から湧き上がってきた蒸気の事も
「ブレーキ・システムからだよ」と、彼が説明してくれた。 
「93」のブレーキは動輪径が小さい為か、台枠の後ろ横向きに設置されているシリンダーで、4動輪全べてのシューをリンクを介して引っ張り、
各動輪前側から押す方式になっていた。
D51は主台枠間、第 1と第 3動輪の後部の横梁に大きなシリンダーが縦に 1個づつ装備されており、二つの動輪のシューを押す方式。

 中央右、円筒形の物がブレーキ・シリンダー

修理場にいた大きな男がやって来て、大きな横向きの機械を抱えメイン・ロッドの辺りで何かを始めた。
若い男に指示を出し、チューブをどこかに繋げて機械を始動する。多分、リューブ器で強制注油をしているのだろう。
「93」の横には扉に頭を向けた「40」が。 通路分の場所を空けて奥の方にディーゼルの 「105」

「ブルー・フラッグ」が車体から直角に掛けられているのだが、良く見ると「Women Working」と表示。
本来なら「Men Working」なのだが、機関庫の中で動力も切られているのだから、ブルー・フラッグも必要無いし、これはジョーク。 
「93」の奥にも炭水車とそれに連結された車両があったが、復元はかなり難しそうに見えたのでパス。
又、工場に戻り、ピットを覗く。 レールの下両側に可動装置が付いているのだが何やら判らない。
平行移動するようにも見えるし。後で判った事だが、レールの一部分が上下に移動し、車輪を抜く為の装置と判った。


ピットの奥から1/3程手前にある2ヶ所の切り込みが可動部分


「93」の大修理

このページはネヴァダ・ノーザン鉄道博物館のオフィシヤル・ニュースレター"Gosst Tracks" の記事を要訳したものです

NNRでは常に 「93」の動輪軸温度を三角線の所で測っていたが、何時も少し高かった。
2007年7月走行中に第二動輪軸の温度が急上昇、列車を停止し、機関車を切り離し、客車をディーゼル機関車に牽引させ戻った。
「93」の車軸温度が下がるのを待ち、どうにか車庫に戻り、第二動輪は機関車から外された。

幸運にもここの修理工場には、このような事態に備える為に整備されていた動輪を下げる装置付きのドロップ・ピットとピット・ジャッキがあった。
先ず最初に、昔からあったオーヴァーヘッド・クレーンを移動、ケーブルをロッド辺りに下げる。
その間にストラップが巻かれたロッドの大きなナットを外す。
次にケーブルをストラップに取り付け、クレーン・オペレーターがロッドの重量が軸に掛からなくなる迄、ケーブルを引く。
若し上げ過ぎると、ロッドは外れないし、弛みがあり過ぎると軸から外れた時にバランスを崩し、回転を起こして落下し、怪我人が出る可能性がある。
これを高さ 9mで、工場の南側の壁に設置されたクレーン操作籠から、北側のピット上に置かれている機関車に対して操作をしなければならない。

次にピット・ジャッキが車軸下に設置され、両側の軸箱守が外される。
ジャッキが上げられると、車輪下のレールが左右に動かされる。
車輪の上縁は主台枠の下迄下げられ、ジャッキと共に車輪は機関車の下側から外側に外される。

以上の行程を行なって判った事は、軸箱の疲労と、軸箱内と車軸のベアリング゙の表面の傷。
この傷によって、グリースが回らず異常発熱を起こす。
第2動輪軸のベアリング゙を旋盤でキズ迄磨きをかけ,運行に戻ったが、同年12月第2動輪軸にヒビを発見。
この軸には 1908年12月30日の刻印が入っており、傷が入っている事により、全ての軸を超音波で検査する事になった。
第1軸の刻印も 1908。 第3は1944、第4軸は1927年の刻印があり、交換されていた事が判った。
しかし検査の結果、第1、第3軸にもヒビが発見され、ヒビの下迄磨くと規定よりも低くなってしまう事になる。
第4軸も磨きが必要だが、規定の高さに近くなっており、すべての動輪軸の交換が必要と判った。

その上で、軸箱、軸の受金 (crown brass) 、軸箱クサビ、滑り板、輪心部、バネの連結具、ロッド類の中心ピンとベアリング、クロス・ヘッドとその滑り棒、
全ての修理か交換が必要とされた。 又、ベアリング゙の一部に30年間静態保存された為の錆も見つかった。 
その上、動輪のタイヤを外した所、シムがばらばらと落ちて来、全ての動輪を外すと、シムの山が出来上がり、タイヤのサイズが輪心部より大き過ぎる事も判った。
問題が大きすぎ、このまま静態保存とするか、資金を集めて再生するかを検討し、最終的に全てを修理、又は、部品交換という決定がなされた。
軸箱修理が最大の問題だった。
部品溶接の後、各部の精度を出す為に少しづつ削りだしていく。 それを何十回も繰り返すのだが、全部で16個。時間がかかる作業だった。

約 1年後の2008年12月27日に再生修理終了、直ぐに試験走行に入り、必要な修正がなされたが、結果は期待通りに動いてくれた。
走行装置は100年前に製造工場を出た時よりも良くなっている。
全て、スッタッフとヴォランティアの努力、ヘバー・ヴァレイ鉄道、ボンヌヴィル・マシーン・ショップ、ゲーリー・マシーン・ショップの協力による。

「93」の歴史
1909年American Locomotive Co.(アルコ)で、NNR用に4両製造された内の1両。
コッパー・フラットとマクギル間で鉱石を運搬。
ディーゼル機関車導入により、1952年に3両がスクラップになったが、「93」はバック・アップ用としてトーチを免れた。
列車運行は1961年に完全ディーゼル化され、その時点でホワイト・パイン・パブリック・ミュージアムに寄付され、屋外静態保存された。

1990年にNRR所有のチェリー・クリーク駅と交換し、ネヴァダ・ノーザン・ミュージアムの車庫に入る。
3年の補修を経て1993年から運転開始。

1995年に観光列車を運行中、枕木を積んだ長物車がKeystoneから自走を始め、推定時速 96km以上で機関車に衝突、
強烈な衝撃で炭水車の上部構造が台枠から外れ、運転室に激突。
機関車の前部も大破、前台枠が何箇所かで壊れたが、乗務員は幸い無事。普通なら廃車のところだが、2年をかけ修理を行った。
同じ頃、ペンシルヴェニア州で蒸機がボイラー事故を起こし、連邦政府が蒸機の安全規制を変更した。
「93」 のボイラーも改修しなければならなくなった。

ユタ州が2002年の冬季オリンピックに選ばれたが、競技開催地の一つ、ヘバー・ヴァレイへの公共交通手段はバスかヘバー・ヴァレイ景観鉄道のみで、
ヘバー・ヴァレイはネヴァダ・ノーザンに参加の打診をしてきた。
資金が集められ大修繕された93は陸送されて活躍した。
オリンピック後には又イーライに戻り走行を続けたが、車軸発熱問題を起こし始め、上記の修理がなされた。

百歳の誕生パーティ
2009年1月17日、修理終了後初めての「93」に拠る旅客列車運転が行なわれた。
午後5時が行事の開始。知事が車庫から駅迄機関車に乗り、駅に於いて「この日を93の日とする」と発表。
「93」の前頭部でシャンペンを割り、次の100年を祈った。 国会議員等の演説の後、全員が列車に乗り込んだ。
キ-ストーン線への列車の最後尾は高さ 4mのバースデー・ケーキと大砲が乗っていた。
キーストーンでは「204」号が花火装備車を連結して待機。「93」が切り離され、三角線で向きを変えている間に、双方の列車が併合された。
「93」は14両編成の列車の先頭になりイーライに向かった。
ケーキと大砲の車両は「93」の後になり、走行中に空砲が何発も撃たれた。
古いトンネルをくぐり抜けた直後に花火が続々と点火され、走行しながらの花火が夜空を彩った。
走行中での花火の発射は世界の鉄道歴史上これが最初であろう、との事。